ロミーナとジュリアンが出会った。
それはいつのことだったか。
月夜の下で、星空のしたで、劇場の天幕の袖で、と誰かが言った。
どこかはともかく、ふたりはひとめで恋におちた。
それがどんな感情なのかふたりはまだ知ることなく、
そしてまたソレを知ろうともしなかった。
なぜならふたりはそんなことには興味がもてなかったからなのだけれど、
まずはそれより、ふたりの周囲がそれを許さなかったからだ。
ふたりにはそれぞれに同じ日にうまれた半身がいた。
ロミーナには男の兄弟が、ジュリアンには女の姉妹が。
けれどもよもや、それぞれの片割れ同士が自分たちと同じように愛し合うとは思ってもみなかった。
ロミーナもジュリアンもまだそのことを知らない。
その名前は、本の頁のどこにものっていないから・・・。
つまり、世界のどこにも、ふたりは存在していなかったんだ。
とある物書きがペンを走らすまではね。
実はまだ、ふたりはふたりの片割れにさえ会っていないんだ。
そこまで書ききれていないんだよ。
その物書きが。
さて、ふたりがそのことを知ってしまったとしたら、どうしただろう。
そのことってぇのは、ふたりの片割れが密かに想いあっているってことをだよ。
きっと両家のご婦人を、失神させるくらいの大立ち回りをするだろうね。
どんな工作をしても、どんな手を使ってでも、その想いを実らせようと活躍するだろうよ。
そう、もとの筋書きにはない、紡がれることのない物語になっただろう。
悲劇は悲劇でなくなり、甘ったるいけれど、すがすがしい、みなが望むような物語になっただろうね。
ふふん、みなが、ではなく物書きが望む・・・だな。
かくしてふたりの見事な手腕により、ふたりの片割れは晴れて結婚し、両家は手と手を取り合いその結婚式を涙ぐみながら祝うのさ。
それはもちろんのこと、
もしもロミーナとジュリアンというふたりが物語に存在していれば、の話だけれど。
さあ、そのふたりの活躍ついて聴いていくかい? それともこんな与太話には興味がない?
まあどっちでもいいから、ちょっと耳をかしておくれよ。 そこ行く皆さんがた。
ここにいるってことは、ひまを持て余してるってことだろう?
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とある古典文学作品のアニメを見て思いついた想像です。
その古典文学作品のアニメの雰囲気や設定は素敵だと思います。
斬新だ。ファンタジックだ。素晴らしい。
名作(名作ではなくとも?)には必ずパロディックな物語が派生しているものです。
オマージュ、リスペクト、インスパイア、パロディ・・・どんな言い方であれ、それはその作品に対し少なからず愛着や敬意(ただ単に気になっているというのもあるでしょう)といった感情を持ち、興味を示しているということですよね。
私はあまり詳しくはありませんが、パロディ対象に対して好意的なパロディ作品は純粋に面白いなあと思います。もちろん大元のオリジナルがあってこそのパロディなのですが、パロディにはオリジナルにはない発想と、「もしも~だったら」という別に分岐した物語が存在しています。自分の好きなお話ならば、読み進めていくうちに誰もが一度は考えてしまうことではないでしょうか。
私はあります。それこそ大好きな本(本でないこともあります)に関しては、何度も想像あそびをくりかえしては、ひとり物語をたのしみます。
その対象に何らかの感情や印象を持っているならば(特に好意的印象を持っているなら)、想像あそびは一層加速していくのです。そして深くその作品に入れ込めば入れ込むほど、想像あそびの題材も多岐に渡るようになります。よりその物語を味わうために。その物語に浸るために。(たとえば何も知らない他人から見れば、みっともないとも言われそうなくらいの妄想の域に達してしまうこともあるでしょう。)
でも。もしも、~だったら、この物語はこんな風な展開になったかもしれない・・・そういう楽しみは読者にとってなくてはない楽しみの一つです。だからこそ、さまざまパロディ要素を含んだ物語が日々生まれていくのだとおもいます。
もちろんこれらの言い分は言い訳としか受け取ってはもらえないでしょうが・・・。
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